中村武羅夫『現代文士廿八人』

昨日は多治見市で40℃超え、東京でも過酷な暑さ。

外出していましたが、帰るとくたっときました。

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あまり、暑いとばかりいっていても、、と反省し、今日はこの本の紹介です。

中村武羅夫『現代文士廿八人』(講談社文芸文庫)。

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これはいつも行く書店で明治の作家の本の話をしていたら、店長さんに「こんな本がでましたよ」と勧められました。1600円もして高いと思いましたが、読んでみました。

この題名に「現代」とついていますが、今ではなく、明治期のことです。

文芸誌『新潮』を育て上げた編集者だった中村の若いころの仕事が、「文士の突撃ルポ」でした。

アポイントなしで、著名な文豪たちに会いに行くという、いまでは考えられない企画の結晶がこの本です。

会いに行ったのは、もっと多いのかもしれませんが、ここには28人との会見記が載っています。

なぜ、この雑誌(「新潮」)の記事がおもしろかったかというと、褒めてばかりいるような作品評とはまったくちがい、好悪を出しての人物評だったから。

当時、大人気だった連載でした。そんな記事は、現代ではみかけません。

会った作家は、花袋、独歩、漱石、藤村、与謝野晶子、鏡花、、、、と興味深い人物たちばかり。

たとえば、夏目漱石に会った印象を次にように書いています。

「漱石氏に接した感じは、例えば古めかしい骨董を手にしたときのようなものである。金箔のピカピカしたところも消えて、いったいにどことなく、燻んで人間が時代離れしている。」

しかめっ面の漱石の絵、写真しか知らない私でも、クスリと微笑んでしまう文章です。

「…漱石氏はどれほど思っているところをつけつけ口及びその行為に現しても、けっして癪にも触らなければ、腹も立たない。要するに人間が骨董的であるから、したがって人物にも厭みがないのであろう、どうしても、吾れ吾れと同じ血が通って、同じ社会に活動している今の人間とは思われない、俳句の会にでも行ったり、お茶でも点てたり、囲碁でも楽しんでいるに似合ったお爺さんである。…余はむしゃくしゃしたり、気の苛つくときには、こういう人のところへ来ればよいと思った。」

という具合に、大家に似合った賛辞を呈するわけではなく、若者から見た一人の年配者の率直な感想を書き付けています。ただ、土台にはその作家の作品をきちんと読んでいて、文学的評価ももった上での人物評なのです。

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与謝野晶子については、次のようです。

「余は女史をいま少し、天才的のある人と思っていた。ところが、その顔、その目、その態度、--歌に見るが如き天才的のところが少しも見えない。一見平凡なるただ一個の婦人に過ぎない。世帯やつれた姿も振りもかまわない世話女房である。」

こう書きつつ、「この天才女流歌人」にして、「婦人の務めに服しておられるのを見て」悲しみ、「天才は個人の独占すべきものではない」と嘆じている。晶子にさらなる尊敬の念を持ち、傑出した女性が文学をやることと世帯のやりくり、子育てをかけ持つことを不合理と思っていることを書き留めている。

このように、文学にも人間についても語りうる著者にしてなり得た印象記、おもしろいです。また、何かの折に紹介させてください。

あと少しで夏休みに入りますね。とはいっても大人にはあまり関係ないでしょうか。

暑い日は、からだがいちばん大事。とくにこんな日は。

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今日もいい日に。



















by komako321 | 2018-07-20 08:53

見たこと、読んだ本のこと、聞いたことを書いています


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